【感想】深夜特急5 -トルコ・ギリシャ・地中海-

前回、『深夜特急4 -シルクロード-』の感想をまとめました。

今回は『深夜特急5 -トルコ・ギリシャ・地中海-』を読んだので感想をまとめようと思います。

『深夜特急5 -トルコ・ギリシャ・地中海-』は、イギリスのロンドンを目指して、イランからイタリアまでのお話になります。

以下は目次です。

  • 第十三章 使者として(トルコ)
  • 第十四章 客人志願(ギリシャ)
  • 第十五章 絹と酒(地中海からの手紙)

旅の最終目的地のロンドンに近づき、旅の終わりを意識し始めています。

長い旅の中で旅自体が変わってきている描写が多く、考えさせられることが多かったです。

よーじ
よーじ

いくつか印象に残った文章をピックアップしました

金銭感覚の変化

第十三章、イランのテヘランからトルコのエルズルムへ向かうバスの話から始まります。

旅の金銭感覚について書かれている描写が印象に残ったので引用します。

朝食はパンと蜂蜜とチャイで済ませた。それで二十五リアル、約百二十円。スリランカの四人組を除けば、乗客の誰よりも質素な朝食なのに、ふと使いすぎたかなと思ってしまう。国境を過ぎれば、イランの通貨であるリアル貨は使えなくなる。それがわかっていながら、どうしても贅沢をする気になれない。日本にいるときの私は、浪費家というのではなかったが、決して吝嗇家ではなかった。ポケットにあるだけの金はいつも気持ちよく使い切っていた。ところが、この旅に出てからというもの、倹約が第二の習慣になってしまったかのように、あらゆることにつましくなってしまった。しかも、その傾向は日が経つにつれてますますひどくなっていく。金がなくなり、これ以上旅を続けられないということになったら、そこで切り上げればいい。そう思っているのだが、旅を終えなければならなくなることへの恐怖が、金を使うことに関して私を必要以上に憶病にさせていた。

深夜特急5 より引用

私も仕事を辞めて収入が無くなったので、資金が減る恐怖を味わっている。

ある程度の金銭的余裕は確保したと思っていたが、安定した収入がない不安を日々感じている真っ只中です。

お金がなくなったら旅を辞めて働けばいいと頭ではわかっているが、そんなに都合よくいかないだろうと心の中では不安や恐怖を感じています。

しかし「お金が減るのが怖いから旅に出ない」という選択肢はない。

「人生で一度は自由気ままに旅に出てみたい」という願望をかなえておかないと、後々になってからやらなかったことを後悔しそうだと思う。

しばらくは不安や恐怖と一緒に過ごすことになるが、どんな心境になるのか観察してみようと思った。

よーじ
よーじ

とりあえず旅に出ることは確定

旅と人生

イスタンブールの安宿でこれまでの旅について振り返っている場面で、旅と人生について考えている描写があり印象に残った。

旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を眼にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。少なくとも、これまでの私だったら、旅を人生になぞらえるような物言いには滑稽さしか感じなかったはずだ。しかし、いま、私もまた、旅は人生に似ているという気がしはじめている。たぶん、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに前に進むことはできない…

深夜特急5 より引用

旅を始めたころの香港では見るものすべてが新しく、刺激的で好奇心を満たしてくれた。

長いこと旅を続け色んな土地を訪れていくうちに、旅の好奇心は徐々に減っていった。

物語が後半になるにつれて、著者の旅に対するテンションとかリアクションが徐々に下がってきているのは読んでいて伝わってくる。

旅に慣れてきて、何を見てもどこかで経験したことがあると感じてしまうようになってきていた。

何が起こるかわからないから面白く、パターンがわかってしまうとつまらなくなっていく。

パターンがわかったゲームはあんまり面白いと感じなくなってくるように、旅や人生も同じなのかもしれないと思った。

よーじ
よーじ

いかなることも、うまくいかないから面白いのかもしれない

パルテノン神殿の猫

第十四章、ギリシャのパルテノン神殿を散策中、観光中のアメリカ人老夫婦とおしゃべりをしていた。

猫が歩いているのを見つけ、老夫人は「かわいそう」とつぶやいた。

なぜかと問うと餌もないだろうし、汚いからだという。

老夫人は猫を飼っており、旅行中の今はペット用のホテルに泊めているとのこと。

その発言を聞いた後の著者の反応が面白かったので、引用する。

それなら、ここで野良猫として暮らした方がどれだけ幸せかわからない。そう思ったが口には出さなかった。

パルテノン神殿の猫たちは、老写真屋に餌をもらうと、円柱の前のよく陽の当たる階段の上で、気持ちよさそうに日向ぼっこをし始めた。

アクロポリスの丘で生きていたのは野良猫だけだった。

深夜特急5 より引用

幸せ、不幸の基準は人によって違うなと感じた。

自由であるさまを好むのか、かわいそうだと感じるのかは見る人によって判断は変わってくるように思う。

周りからみすぼらしく見えるかもしれないけど、本人は楽しんでいるかもしれないし満足して幸せかもしれない。

困っている人に手を差し伸べるのは大切なことだが、「困っているだろう」と勝手に決めつけるのは違う気がした。

生まれ育った環境の違い、文化の違いで善悪が異なる場合もあるかもしれない。

今後は海外での生活も視野に入れたいので、自分の常識が必ずしも正しいとは思わず、多様な価値観があることを受け入れられるようにしようと思った。

よーじ
よーじ

本当の気持ちは本人にかわからないよ

旅の周期

ギリシャのオリンピアでの観光を終えてアルゴスに到着したとき、ギリシャ人男性に声を掛けられコーヒーをおごってもらい、おしゃべりをしていた。

そのような状況を前も体験したことがあるなと振り返っていた時の描写が好きだ。

あるいは、変わったのは、土地でもなく、私でもなく、旅そのものなのかもしれなかった。いや、確かに土地も、私も変化しただろう。だが、それ以上に、旅が変化していたのだ。

旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。なにを経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、たどってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。年を取ってくるとしきりに昔のことが思い出されるという。私もまたギリシャを旅しながらしきりに過ぎてきた土地のことが思い出されてならなかった。ことあるごとに蘇ってくる。それはまた、どのような経験をしても、これは以前にどこかで経験したことがあると感じてしまうということでもあった。

私の旅がいま壮年期に入っているのか、すでに老年期に入っているのかはわからない。しかし、いずれにしても、やがてこの旅にも終わりがくる。その終わりがどのようなものになるのか。果たして、ロンドンで<ワレ到着セリ>と電報を打てば終わるものなのだろうか。あるいは、期日もルートも決まっていないこのような旅においては、どのように旅を終わらせるか、その汐どきを自分で見つけなくてはならないのだろうか…。

この時、私は初めて、旅の終わりをどのようにするかを考えるようになったといえるのかもしれなかった。

深夜特急5 より引用

この感覚は旅を長いことした人にしかわからない感覚なのだろうと思った。

私が思っていた旅のイメージは、新しい環境で目に入るもの全てに興味関心が持てるようなイメージだったが、それは旅の最初の一部でしかないのだと知った。

旅を始めたころとは違って世界が見えるのだろうなと思う。

旅の終わりについて意識し始めてきて、私もどんな結末を迎えるのか気になってきた。

よーじ
よーじ

旅の終わりはどんな気持ちで迎えるのだろう

自分探しの旅

第十五章の最後の方に、自分探しの旅について書かれ、印象に残ったので引用する。

彼らがその道の途中で見たいものがあるとすれば、仏塔でもモスクでもなく、恐らくそれは自分自身であるはずです。

それが見えないままに、道の往来の途中でついに崩れ落ちる者も出てきます。薬の使いすぎで血を吐いて死んでいったカトマンズの若者と、そうした彼らとのあいだに差異などありはしないのです。死ななくて済んだとすれば、それはたまたま死と縁が薄かったというにすぎません。

しかし、とまた一方で思います。やはり差異はあるのだ、と。結局、徹底的に自己に淫することができなかったからだ、と。少なくとも、僕が西へ向かう旅のあいだ中、異様なくらい人を求めたのは、それに執着することで、破綻しそうな自分に歯止めをかけ、バランスをとろうとしていたからなのでしょう。そしていま、ついにその一歩を踏みはずすことのなかった僕は、地中海の上でこうして手紙を書いているのです。

取り返しのつかない刻が過ぎてしまったのではないかという痛切な思いが胸をかすめます。もうこのような、自分の像を求めてほっつき歩くという、臆面もない行為をし続けるといった日々が、二度と許されるとは思いません。

ここまで思い至った時、僕を空虚にし不安にさせている喪失感が、初めて見えてきたような気がしました。それは「終わってしまった」ということでした。終わってしまったのです。まだこれからユーラシア大陸の向こうの端の島国にたどり着くまで、今までと同じくらいの行為が残っているとしても、もはやそれは今までの旅とは同じではありえません。失ってしまったのです。自分の像を探しながら、自分の存在を滅ぼし尽くすという、至福の刻を持てる機会を、僕はついに失ってしまったのです。

深夜特急5 より引用

引用した文章は、あまり意味を読み取れた自信はないけど、何度も読むくらい印象に残った好きな箇所です。

この文章の少し前にフランスの作家ポール・ニザンの言葉が引用されていたので、以下の言葉にも意味があるのではないかと思った。

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だななどとだれにも言わせまい。

一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。

ポール・ニザン「アデン・アラビア」

二十歳という年齢は若さや自由の象徴であるとともに、社会へ参加する年齢で現実への失望や、社会や将来への不安を抱く年頃になる。

成人し世間的には大人に分類されるが社会人としては青臭く、繊細な存在だともいえる。

旅に置き換えると、旅を始めたころは自由であり、好奇心の赴くままに行動し、トラブルが起これば恐怖や不安に襲われることを指すのかなと思う。

長い旅の間で色んな土地をめぐり、様々なトラブルをくぐり抜けて成長してしまった。

旅の最初に感じていた感覚は、もう味わえることはできない、見えていた世界が変わってしまったと悟り、喪失感を覚えているのかなと解釈しました。

もう、自分の好奇心に従ってバカな行動をしたり、自分の酔いしれて身を滅ぼすようなことはできなくなった、大人になってしまったというのが、「終わってしまった」の意味なのかなと思いました。

最後に船の上から酒を海に注いでいるシーンがあるが、ちょっとカッコいいなと思った

よーじ
よーじ

この解釈で正しいのかモヤモヤするが、なんか好きな文章だった

【まとめ】旅の成長と変化と終わり

今回は『深夜特急5 -トルコ・ギリシャ・地中海-』の感想をまとめました。

旅も終盤に近付き、明らかに旅の最初の頃とは旅の描写の印象が違ってきている。

見えてる景色も最初の頃とは違っているのだと思う。

これがいい変化なのか、悪い変化なのかはわからないけど、「旅は人を変える」というのはこういうことなのかなと思った。

次で最終巻となる。

この度はどんな風に終わりを迎えるのか楽しみにしています。

これまで読んできた沢木耕太郎さんの本をまとめました。

興味があれば読んでみてください。

よーじ
よーじ

最後まで読んでくれてありがとう

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・深夜特急5 -トルコ・ギリシャ・地中海-

【感想】深夜特急1 -香港・マカオ-

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